昨日、庭の上の電線で、ヒーヒーのおなじみの声。今季初のジョウビタキは♀でした。
今日は、お隣で、♂も見かけました。
牛久市新地町の三叉路に、月読尊の石碑がありました。
牛久市史民俗調査報告書Ⅱ「城中・新地、上町・下町の民俗」によると、「弘化新田に入る手前の三叉路には、月読尊の石塔が立てられている。かつては近隣の家々で「サンヤサンの仲間」と称される講中を組み、正月23日にはヤドの床の間にサンヤサンの掛け軸をかけてニジュウサンヤマチ(二十三夜待)が行われていた。」とされている。 旧茎崎町樋ノ沢の月読神社と関係があったようです。
このそばの道沿いに、大正10年11月の道標が立っていました。
右に行くと、小茎、若栗、羽成、谷田部。左に行くと新地を経て牛久、城中となっていました。
旧牛久村は、現在の、城中村、牛久村、田宮村、遠山村、そして、新地村が、町村制施行の際に、合併してできています。
ここには、河童の絵で有名な小川芋銭が暮らしていましたが、大正11年に、地元の城中青年会(矯風会)によって旧牛久村の主要な道沿いに道標をたてる計画があることを知り、永久に耐えられる石柱にするべく寄付をしたため、芋銭の名を刻もうとしたところ、「改善一歩」を提案したという。
現在、7柱が点在しているといいますが、同じ頃なので、その1本なのでしょうか?この道標も裏もよく見てみればよかったのですが、たしか、改善一歩とは刻んでいなかったと思います。
場所の地図 「道標の場所」をダウンロード
鹿島神社 (「稲敷の神々」茨城県神社庁稲敷支部) の稲敷の神社参照
鎮座地:牛久市上太田町475、御祭神:武御雷命(タケミカズチノミコト)、御祀神:天児屋根命(アマノコヤネノミコト)・誉田別命(ホンダワケノミコト)
創 建:大永7年(1528年)9月(部落民、鹿島の大神の神徳を敬仰し、分霊を奉斎して鎮守とす。) 現在の社殿は、寛永8年(1631年)3月造営
例祭 11月19日 以前は、4月15日に、上太田花見囃子(大杉囃子)が行われていたとのこと
○入母屋造りの拝殿 扁額も由緒ありげです。
○小社は弓取八幡宮。御配神の誉田別命(=応神天皇)を祀るものなのでしょうか。一般には、武運の神とされます。
大杉大明神・常陸坊海尊の石祠なかなか興味深いところです。この石祠は、稲敷市阿波の大杉神社に由来するものと思われますが、そのHPでは、常陸坊海存(海尊)について、以下のように説明しています。
『今から800年ほど前、大杉神社では源義経と行動を共にしたこともある常陸坊海存(海尊)が社僧を務めていました。
海存の容貌は特徴的で巨体に紫髭、碧眼、鼻高でありました。海存は不思議な力を持っており、大杉大明神の御神徳によって、病を治し、多くの人々を救い、数々の奇跡を示しました 。 そのことにより「海存は大杉大明神の眷属で、天狗である」との信仰へと発展いたしました。
当初は海存の風貌から烏天狗を御属としておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました。
現在ではいかなる願いも叶えて下さったと伝えられる海存の奇跡に由来して、大杉神社を日本で唯一の「夢むすび大明神」と称し、鼻高天狗は「ねがい天狗」、烏天狗は「かない天狗」と呼ばれるようになりました。』 以前、大杉囃子が行われていたことと合わせて、郷社であった、大杉神社とつながりがあったのかもしれませんね。
○他の石祠 天満宮、天照皇大神宮、羽黒山(下の方は見えません)、石尊大権現(せきそんだいごんげん。大山阿夫利神社の関連と思われる。)
後ろの二つは、江戸時代の信仰なのでしょうか?羽黒山詣りや大山詣りと関係があるかもしれません。
5年前に見たミズネコノオを見に行きました。
前に見た田んぼで捜したのですが、見当たりません。微妙な生育条件なのか、どこでも見られるわけではないので残念でした。近くの畑では、ソバの花が咲いていました。
牛久自然の森では、秋の花が花盛り。オミナエシ、ワレモコウ、ヤクシソウ、サラシナショウマやトリカブトも咲いていました。
鳥たちは、アカゲラ、コゲラ、シジュウカラ、ヒヨドリ、オオタカ、トビ、ハシブトガラス
牛久沼には、まだ、ユリカモメやカモたちは来ていませんでしたが、広場では、ヒバリが鳴いており、ムクドリが集まっていた木にツツドリが飛んできました。
帰り道、近所の電線では、チョウゲンボウ(♀)を見かけました。