2011/04/30

新潟(4/23~4/25)その1

 久しぶりに、黄色いスミレを見たいのもあり、今年もGmaの実家がある新潟に行きました。



 行きは、常磐道から磐越道を通っていったのですが、両高速道路とも、路面が傷み、段差ができており、地震の被害の大きさを体感しました。
 せめて、裏磐梯で一泊しようと思っていたのですが、震災の影響で、残念ながら3月末に営業中止となってしまいました。なお、そのホテルでは、現在、被災者の受け入れを優先ということで、一般営業の再開は8月となるようです。



 さて、最初はスミレたちです。今年は雪が残っていて、狙っていた山古志付近では見られないということで、いとこのTさんに、群落が見られるところに案内してもらいました。



 あるところにはあるもので、斜面が黄色に染まっていました。



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 染み透るような黄色です。



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 日本海側のスミレでは、このオオバキスミレのほか、スミレサイシン、オオタチツボスミレ、ナガハシスミレが見られました。



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 このほか初見のヒカゲスミレなども見れました。



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 さて、このヒカゲスミレとしたスミレですが、ヒカゲスミレの”葉は薄く、両面に毛がある”とされているのですが、葉はやや厚く、毛は見られないので、疑問符がついてしまいます。



 このほか、いつも見ている、ニョイスミレ、タチツボスミレ、アオイスミレ、コスミレがやけに綺麗に見えるのはどうしてでしょう。



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2011/04/23

庭の花(4月)

 前回から40種あまりの花が咲きました。



 各種のスイセン、チューリップ、スノーフレーク、ハクモクレン、トウモクレン、ソトベニハクモクレン、シデコブシ  、ボケ、クサボケなどが色とりどりの花をつけ、何ともにぎやかです。



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 スミレの類も、アケボノスミレ、アメリカスミレサイシン(ビオラソロリア)、アツバスミレ、クワガタスミレなどが一斉に花をつけています。



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 ヤマブキ、シロヤマブキ、ドウダンツツジ、ヤマツツジ、ニワウメなどもにぎやかです。



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 やや地味な花たちも、可憐な花をつけています。タチイヌノフグリ、アケビ、キランソウ、ムラサキケマン、フタバアオイ、カラスノエンドウ、シロバナタンポポ、スズメノヤリ、カラスムギ、ヒトリシズカ、ホタルカズラ、ヤマブキソウ、アマドコロ、バイカイカリソウ、フデリンドウなど。







 全部を掲載するのはちょっと無理みたいです。







2011/04/10

発掘が語る土浦の古墳時代

 上高津貝塚ふるさと歴史の広場で開催されている企画展「ムラの風景 くらしの足跡」━霞ヶ浦周辺の古墳時代集落の講座に参加してきました。



 ともすれば、古墳自体に目がいきがちですが、古墳時代の集落の様子も大事ですし、発掘も集落跡のほうが多いそうです。古墳時代は3世紀後半から7世紀ですが、霞ヶ浦周辺では、古墳時代なると、土器の様相が一変するそうです。弥生時代のこの地域の特徴であった附加条縄文(ふかじょうじょうもん)が消えて、南関東の系譜を引く土師器(はじき)に変わったそうです。



 講義とスライドを利用した住居の様子や土器の解説のち、展示されている現物を見ながら解説をしていただきました。



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 いくつか、疑問がありました。



 縄文の中期の人口が30万であったのに、縄文晩期には8万人という説もあるそうですが、弥生時代には西日本を中心に増加し60万人となったとされ、安定した農耕社会とすると、養える人口も増えるはずなのですが、土浦では、弥生時代の集落が極端に少なく、他の時代が200を超える集落数があるのに対して、見つかっているのは65集落だそうです。



  さらに、当時の霞ヶ浦は、まだ、海とつながっており、塩分を含んでいて、稲作には適しておらず、谷津の湧水を利用していたと考えられますが、土浦市内では、また水田跡は見つかっていないそうです。



 色々謎がありますが、そういえば、講師の学芸員の方のお名前は、片平なぎささんが主演するテレビドラマのミステリー「赤い霊柩車」のお医者さんと同じお名前でした。



 古墳時代後期も後半となると小規模な円墳などが増え、大農家?なら誰でも古墳を作るような時代があったようですが、律令制が施行される頃には、もう古墳は作られなくなったようです。



 来週は、「古墳時代の風景-群馬県榛名山麓を中心に-」で群馬の古墳についての記念講演会があるそうです。東国一の古墳数を誇る群馬の話も楽しみです。



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