上高津貝塚ふるさと歴史の広場で開催されている企画展「ムラの風景 くらしの足跡」━霞ヶ浦周辺の古墳時代集落の講座に参加してきました。
ともすれば、古墳自体に目がいきがちですが、古墳時代の集落の様子も大事ですし、発掘も集落跡のほうが多いそうです。古墳時代は3世紀後半から7世紀ですが、霞ヶ浦周辺では、古墳時代なると、土器の様相が一変するそうです。弥生時代のこの地域の特徴であった附加条縄文(ふかじょうじょうもん)が消えて、南関東の系譜を引く土師器(はじき)に変わったそうです。
講義とスライドを利用した住居の様子や土器の解説のち、展示されている現物を見ながら解説をしていただきました。
いくつか、疑問がありました。
縄文の中期の人口が30万であったのに、縄文晩期には8万人という説もあるそうですが、弥生時代には西日本を中心に増加し60万人となったとされ、安定した農耕社会とすると、養える人口も増えるはずなのですが、土浦では、弥生時代の集落が極端に少なく、他の時代が200を超える集落数があるのに対して、見つかっているのは65集落だそうです。
さらに、当時の霞ヶ浦は、まだ、海とつながっており、塩分を含んでいて、稲作には適しておらず、谷津の湧水を利用していたと考えられますが、土浦市内では、また水田跡は見つかっていないそうです。
色々謎がありますが、そういえば、講師の学芸員の方のお名前は、片平なぎささんが主演するテレビドラマのミステリー「赤い霊柩車」のお医者さんと同じお名前でした。
古墳時代後期も後半となると小規模な円墳などが増え、大農家?なら誰でも古墳を作るような時代があったようですが、律令制が施行される頃には、もう古墳は作られなくなったようです。
来週は、「古墳時代の風景-群馬県榛名山麓を中心に-」で群馬の古墳についての記念講演会があるそうです。東国一の古墳数を誇る群馬の話も楽しみです。
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